灰色のロバ

地球が宙に浮いていること 誰もがそれを忘れている それでも時折不安になる

転職or天職

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ブルーシートで囲まれた家はめったに人の来ない遊歩道の脇にあった
カチャカチャカチャという音に誘われて勇気を出して覗いてみた

老人が一人背を丸めて電卓を打っていた
ぶつぶつ何か呟きながら時折手を止めてノートに何か書き込んでいる
老人の耳にはイヤホンがはめてあつて携帯電話に繋がっている

そこまで見たところで老人に気付かれた
老人は臆した風もなく立ち上がると
おはいんなさい!と威厳のある声で言った
その声に敵意のない事もあってぼくは中に入った
進められるままに座布団に腰を下ろすと老人は茶を煎れてくれた
いやいやながら口にしたぼくは次の瞬間あっ!と叫び声をあげた
そのお茶は味といい香りといい最高級のものだったからだ
これは…
お若いのに茶の味が判るとは感心なものですな
ぼくの顔に浮かんだ戸惑いを愉しむように老人は言った

その日以来ぼくは老人の仕事を手伝うようになった
仕事といっても全貌はわからない
かかってくる電話の金額を合計して
銀行に電話するのだ
額は大抵8桁から12桁で合計をノートのつけ
老人に報告する 老人はいつも御苦労とだけいってニンマリ笑った
時々食事を御馳走になる事もあった
たいていめざしかアジの開きでカセットコンロで焼いて食べるのだ

昼間は大抵空き缶集めに出かけてる
今日は1000円にもなったといって
ぼくに丸めた紙幣を見せ少し威張って見せたこともある
そのくせぼくのバイト代はきちんきちんと銀行に振り込まれるのだ

余計な事は一切聞かないこと それが採用の条件だった
他に時給2000円を超えるバイトはなかったし あっても途方もなくきつかったので
条件をのんでぼくは働く事にしたのだ

ある時仕立ての良いスーツを着こなした男が一人小屋の中に座っていた
会長 お遊びはほどほどにしてそろそろお戻りになられてはいかがですか
ふむ~
そんな会話が聞こえてきた
それからほどなくして 旅に出るとだけ言い残して老人は姿を消した
ぼくのバイトは続いているし 報酬もきちんと振り込まれている
昇給も賞与も最初にきめたとおり守られている


あれからもうすぐ15年になる
15年の間にぼくは結婚して子供もできた
相変わらず仕事は続けているし、その報酬を貯めたお金で小さなマンションも買った
実はあれから一度だけ老人を新聞で見かけた事がある
経団連の会頭がどうのこうのという記事だったようだが
写真はピントがずれててはっきりとわからなかった
そんなことはどうでもいいのだ
ぼくが仕事をしてきちんと報酬が振り込まれることそのことが何にもまして大事なのだ
今ではこれがぼくの天職のような気がしてきた

誰にでも岐路はある それは後から振り返って初めてそう判るのだ
あの日カチャカチャという音にひかれて小屋の中をのぞいた事が
ぼくの人生を決定づけることになろうとは…


また同じ作り話を繰り返してますよあの患者
若年性アルツハイマーなんですか
彼はその~なんというか特殊なケースでして…
社会人になりたくないという強い願望が
あのような妄想を作り上げているのです

ただ不思議な事に彼の口座には
規則正しくかなりの金額が振り込まれているのです
信じがたい事ですが…
あながち妄想と言えないのかもしれませんねぇ
おっと これ以上は患者の個人情報に関することなので申し上げられません
それだけ言うと医者は笑った

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